「彗星」を長時間のフライト中に繰り返し繰り返し聴き続けて思ったことは、まずこの美しいストリングスの流れがさ、もうなんつの、これこそが小沢健二、って云うのか、もうストリングスだけ聞いてるだけで泣けちゃうほど、あぁそうだ、これを待っていたんだよな、ありがたいな、嬉しいなって。
それでさ、咀嚼するのにたくさん時間かかるんですよ、今に始まったことじゃないですけど。音の多重構造だけではなくて、歌詞を読むでしょ、物語とか、詩とか、心がぎゅっと掴まれるような感情とか、だけど、とんでもない人生讃歌だったりするとことか、そんな簡単な言葉では言い表わせない、とにかく情報量が多すぎてだな。
けどそれ、ほんとに今に始まったことじゃなくて、小沢健二の90年代から続くその種の音づくり、作品づくりに、贅沢なことにわたしたち、すっかり飼い慣らされてるフシがたっぶりある訳じゃないですか。
いつだったか「簡単でわかりやすいものがもてはやされる、難しい内容のことは時代に向いてない、ウケない」(うろ覚えだ)みたいなことを小沢くんも言ってたと思うんだけど、そう云う時代にあってもわたしたち、簡単でわかりやすい、消費されるだけの音楽や文学には飛びつかなかったじゃない?「みんな一緒に騙される笑」ってもちろん自分も騙されながらちょっと気づいてた、そう云う自覚はあるじゃない?たぶん小沢くんは、その判断をしてきた者たちのことを「賢い」と言ってくれてるんだと思ってるんだけど、しかしまんまと嵌められてる感もあったりなかったりして、悔しいような、そうでもないような、寧ろ誇らしいような、それこそ、受け取って感じるこちら側もしっかり試されていると云うか。なんか纏まらないけど。
それにしても、わたしは(とゆーか我々は)、なにこれ、盛り込み過ぎなんじゃないの、勿体ない、ちょっと考えなよ、サービス精神旺盛にも程があるじゃんね、切り離したらいくつの作品を作れると思ってるの、切り売りしないなんて商売っ気なさすぎではありませんかな!って云う作品ばかりを愛しているなぁ、って思うわ。
90年代から00年代を経て、現在まで、ずっと身の回りに置き留めて、繰り返し、見たり、聴いたり、観たり、読んだり、鑑賞したり、歌ったり、深く感じいったりしたモノやコトたち、みんなそんなんばっかりじゃないか。ひどく複雑で、どれもこれも愛おしくて「なんて素敵なんだろう!」ほんとに。
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