続きをもっと聞かせて


ごきげんよう。
いい雨音の晩ですね。
今夜の雨はどんな薫りがするのかしら。


こんな夜には例の、屋根に当たる雨の音が素晴らしく店の中に響く三軒茶屋のあのカフェに行って、テーブルの上に揺れるキャンドルの灯りをじっと眺めたりしながら、ネルドリップで淹れてくれる真夜中のコーヒーをそっと飲んで、ふたりして眠れなくなって、広いソファー席でそっと手を繋ぎながら、時々耳もとに口を寄せてぽしょぽしょと、内緒の話をしてみたいものですね。もしもわたしの声が、大きな雨の音に掻き消されて聴こえなくても、あなたはうんうんと頷いてくれればいいし、わたしもあなたの話している内容がなんだか分からなくても、もうわからないままで、何回も訊ねたりしないで、ただ耳を澄まして声を聴いていたりするだけのおしゃべりがいいです。


去年の春のあの日にお会いして、嵐が行ってしまったあとのひっそりと静かなカフェで、1週間ぶりに会うような、10年ぶりに会うようなとても不思議な時間を、昼下がりのビールを飲んでいろいろを埋めあったあとに、川沿いの白木蓮の向こうに広がる青すぎる空を見たり、暗闇で眼鏡を外し合ったり、カーテンを開けたり、眩しくてまた閉めたり、すっかりぬるくなってしまった炭酸水を飲んだり、滅多に飲まなくなった煙草をあなたにもらって火を点けてみたり、生きているとそう云うドラマティックないちにちが、わたしの身にも降り掛かったりする訳ですが、どっちに転ぶかわからない、その直前の空気がとても危うくて、あなたは「どちらかの気持ちが、急激にどこかへ行ってしまったら不安だから、だから急ごう」と云って、ちょっと嘘みたいに力をこめてわたしの手を握ってくれましたけれど、この強い気持ちが、急にどこか明後日の方向に消えてしまうなんてことはもちろんなくて、このひとはいったい、何を心配してらっしゃるのかしらと微笑ましく思ったのでしたが、あれは、そうじゃなかったのね。初めてのことに緊張して力が入っていただけだったのね。つい先ほどようやくそのことに思い至ってくすくすと笑ってしまいました。(でも屹度、そのことをお訊ねしたとしても、下を見て聞こえなかったふりをなさるか、なにごとか考えているふりで唇を動かすのかなと想像がつくので、その質問はしないようにいたしますね)


それでたしかその晩に、平日の夜遅くのルノアールみたいなしんとした喫茶室で、まだ帰るのが惜しくて、無理に冷めた珈琲をすすりながら、そろそろあの新しいのを読んでおきましょうか、みたいな話になったのでした。だからたぶん、その翌日くらいには近くの本屋さんに寄って、第1部の上下巻を文庫で買ってきたのに、なんだか気乗りがしないまま1年と3ヶ月が過ぎていたのよ。読み始めたら、やっぱり読み慣れているこの作家氏の文体にスッと馴染んで、つるつる読み進められているので、これは先生に朗読したら、とても楽しかったのじゃないかしら?と思うほど所々で笑っているのですけれど(だって、主人公がとうとう絵描きって!もう面白いに決まってるやつでしょ?いろいろな意味で)、不思議なことに(いつも不思議に思う)、ここにはもう先生はいらっしゃらなくて、先生の意見はわたしがいっぺん死んでみるまで聞くことが出来なさそうですから、いまはまぁ、諦めます。そのかわり、生きているひとの意見に耳を傾けてみることにしたいと思うのです。…とは云え、そんなことも口実です、真夜中の雨音がわたしの胸に耳に頭に、響いて仕方がないだけです。


だから近々、また、お会いいたしましょう。





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